悪魔／英雄

そのことは、当時の道子にとっては本当につらかった。彼女にとっては、その男がこの世でたったひとりの心の拠り所だったのだ。圭太をお腹の中に授かったことが分ったとき、やっと自分にも家族が手には入るんだと、涙が止まらないほど喜んだ。しかし、家に帰ると男がいなくなっていた。たった1枚のメモを残して……

『道子、
短い間だったけど、もう道子と別れなくてはいけません。ほんとうは、こんな別れかたはダメだけど、ぼくは道子の思い出にはなれないんです。
だから忘れて欲しい。この紙も捨ててください。
愛しているよ。
さようなら。

カゲルより』

道子は警察に捜索願を出したが、結局見つけ出すことはできないでいた。男も身寄りが無く、彼女との共通の知り合いも無いので探しようがなかった。いや、共通の知り合いはひとりいたのだが、そのひとはカゲルが疾走したのと同時期に不可解な死をとげたのだ。

警察はこの事件とカゲルの失踪に関連性がないかと調べたが、結局何も分からないままでいる。

道子は学校の宿題をする圭太を脇目で見ながら出勤の準備をしていた。髪を頭のてっぺんでくくり、さっと化粧をし、ピンクの口紅をつけた。今日は友達の勤めるキャバクラにアルバイトをしに行くのだ。彼女は週に一度だけ夜の仕事をしているのだ。その間、圭太はひとりで留守番をするのだが、彼は寂しいとも言わず、黙々と勉強をし、眠くなればひとりで布団に入り眠るのだ。

「圭太、行ってくるからね、お利口にしといてね」
圭太は分かった分かったと言い軽く手を振った。
「水道の出しっぱなしはダメよ？あとガスも絶対に使っちゃだめだからね？」彼女はバタバタと急ぎながら、圭太に伝えなければいけないことを早口で言った。
「母ちゃん早く行かないと間に合わないよ？おれ宿題忙しいから母ちゃんの相手してらんねんだけど」
「はいはい、悪かったわね、じゃあ行ってくるね」彼女は玄関から急いで出て行った。

金曜日の23時、いつもならとっくに寝てなくてはいけない時間だが、今日は違っていた。圭太の母親は毎週この時間は仕事に出掛け、朝まで帰ってこないのだ。つまり彼にとっては、夜更かしをする大チャンスなのだ。彼はこのときの自分を「王様」と言い、なんでも好きなことをやるのだった。お菓子をバリバリ食べたり、母親が隠しているレディースコミックを探し出し、ドキドキしながら読むのだ。しかしこれは、ただの時間つぶしでしかなかった。彼の本当の楽しみは深夜の1時に始まるのだった。
「悪魔シャドウ」
ヒーローモノの特撮が放送されるのだ。

「悪魔シャドウ」
悪魔の2文字を冠したヒーロー、シャドウは、犯した罪の大きさだけ力を得ることが出来るという悪魔特有の能力を逆手に取り、人類を魔界の侵攻から守るための力を手に入れるために、身内殺しの罪を犯す。悪魔シャドウは深夜の放送のためか、お世辞にもよく出来ているとは言えない特撮である。怪物の着ぐるみっぽさや、素人まがいな俳優のキャスティングから、制作局の予算があまり無いんだなということが分かった。

しかし圭太にとっては申し分の無い面白さがあった。たとえばロケ地が彼の住む団地のすぐそばだったり、小さい頃に母親に連れられて行った山奥のハイキングコースだったりするのだ。たまたまかも知れないが、彼はこの特撮ドラマが自分のために放送されてるのではないかと思っていた。
やはり放送される時間帯が深夜のためか、クラスでこの番組を知るひとはほかに無く、圭太はシャドウについて語り合えないことを残念に思っていた。

しかし圭太は、これを自分だけのシャドウだと思うようになっていた。
部屋の明かりを消し、布団から目だけを覗かせて、32インチのテレビ画面の向こうに入り込んでいた。